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私の父は今から20年前、クモ膜下出血で倒れました。当時16歳だった私もその病気が命にどう関わるかということはわかっていました。絶望の淵に立たされた母と私、そんな心配をよそに凄いスピードで回復していく父。

目立った後遺症もなく、仕事に復帰するほどまで回復しました。その後、定年まで仕事を勤め上げました。そんな父の闘病記を皆さんの勇気になるように綴っていきます。

<執筆者プロフィール>

【ペンネーム】MIGA-ARU

【年齢】36歳(女性)

【職業】専業主婦

 <患者プロフィール>

【年齢】65歳

【発症した年齢】45歳

【出身】愛知県

【職業】平成30年より復帰予定

1)「くも膜下出血」とは?当時の状況と病気の原因は?

【1】当時の仕事と発症した時の状況

「クモ膜下出血」とは、脳を覆う髄膜のうち、クモ膜(2層目)と軟膜(3層目)の間「クモ膜下腔」が出血、脳脊髄液の中に血液が混ざった状態を指します。と言っても難しい説明ですよね。私が当時、医師から受けた説明は「生まれつき頭の中に瘤があって、それが加齢と共に大きくなって破裂する」ということでした。

父は中学校卒業と同時に地元では有名な染色整理(繊維関係)の会社に入社し、部署は変われど当時、勤続30年というベテラン社員で、仲間にも恵まれ、家でも職場の話はよく聞いていました。

家を建て、平成9年4月に現在住んでいるところに引っ越してきました。引っ越してきて1年も経たない平成10年3月16日夕方、一本の電話が鳴りました。母が対応していますが、ただ事ではない様子です。話を聞くと「お父さんが倒れたって。○○病院に救急車で運ばれたって。」車に乗れない母は私と2人で○○病院に自転車でかけつけました。救急処置室にいた父は『大いびき』をかいて寝ています。

職場の人に詳しいことを聞くと、職場のトイレから出たところで口から泡をふいて倒れている父を発見したとのことでした。意識がないながらも救急隊の人に○○病院に行ってほしいと言ったそうです。自転車しか乗れない母と私のことを思ってなのかはわかりませんが、○○病院とは家から近い病院です。

【2】当時の生活習慣・生活スタイル

当時の父の生活習慣と言えば、タバコを吸うこと、仕事から帰ってくるとビールを飲むことでした。タバコに関しては当時未成年だった私がどんな銘柄を吸って1日に何本吸うということまでははっきりとは覚えていませんが、ヘビースモーカーではなかった記憶はあります。

ビールも飲むと言っても350mlの缶ビールを1本飲みきるか飲みきらないか程度で大酒飲みという感じではありませんでした。

父は当時交替勤務をしていました。何時から仕事だったのかは知らないのですが、早番はまだ外が薄暗い時間からの出勤、遅番は昼過ぎ2時くらいからの出勤だったと思います。残業は日によって多い時はかなり多かった記憶があります。その生活を私が生まれた時にはもうしていたので、16年以上は続けていたということになります。

【3】くも膜下出血になった原因は?

もともと破裂してしまう瘤が頭の中にあったので、生活習慣のタバコや生活スタイルの残業がなど原因になったのかもしれません。ですが、母曰く「お父さん倒れる前、凄く仕事根詰めてたからだわ。頑張りすぎたから倒れちゃったんだと思う。」

確かに思い起こしてみれば入社してからずっと現場仕事の父が当時は珍しく和室に資料を広げてワープロで何かを作成していた記憶がありますし、父が入院してからも和室はその資料が散らばったままでした。それが直接的な原因かどうかは断定できませんが、今思えばタバコも残業もワープロも全ての悪いことが重なって倒れてしまったのかもしれません。

総合病院の外観

2)どのような症状が現れた?症状の進行の仕方は?

【1】症状の予兆や前兆症状は?

『首こり・肩こり』の症状がありました。もともと父は首こり・肩こりが酷く、私が小さい時も当時もよく肩を揉まされていました。倒れる前はワープロで仕事していたこともあって首こり・肩こりは酷かったと思います。

効くのか効かないのかよくわかりませんが、その改善をうたった入浴剤を使っていた記憶があります。ちなみに退院してから父は首こり・肩こりは一切なくなったと言っています。

【2】父の症状

母が家事を済ますために私と交替したときのことです。大きないびきが止まり、「首揉んでくれ。」と一言言って大いびきが始まります。首を揉んでいると「違う!2のところと4のところが・・□○※▲・・」何やら怒っていますが、何を言っているのかわかりません。

私も必死に「ここが痛いの?」「ここを揉めばいいの?」と聞きますが、モゴモゴと意味のわからない言葉を発しながら怒っています。これはただ事ではないと思い、母を「ちょっとー!お父さんが何を言っとるかわからんのやけど来てー!」と呼び、見てもらいます。母もどうしていいかわからず、不安からか伯母(母の姉)に電話をしました。

【3】父の症状を見てどう対処したか

母は父が倒れてからの状況を伯母に話します。伯母の友人に愛知県にある総合□□会病院の脳外で働いていた元看護師がいるということで至急連絡を取ってくれるとのこと。折り返しを待ちました。

伯母から電話があり、「脳の病気かもしれないから救急車呼んで総合□□会(病院)に行って」とのことでした。その前に近くに住む伯父(父の兄)に連絡し、家まで来てもらいました。救急車を追って病院までついてきてもらうためです。

父を2階から1階におろす伯父、私を大声で呼びます。「△△(私)ちゃーん!」何?と伯父のところへ行くと「(かかえている父が)吐きたいんやけど、トイレの場所がわからんのやと。」私は思わず絶句してしまいました。「(お父さんがが建てた家やん。何でわからんの?いよいよやばいところまできたんじゃないの?お父さん、死ぬの?)」そう思いながらトイレへ案内し、どうすることもできず、ただ怖くて立ち尽くしていました。

救急車が到着し、母は救急車へ父と、伯父は自分の車で病院へと向かっていきました。私は「もう大きいから大丈夫だよね。」と一人で留守番でした。お父さんが死ぬかもしれないのに大丈夫なわけないじゃんと思いながら・・。

3)病院で行われた検査・手術は?

【1】病院選び

伯母の友人の脳外の元看護師の一言「□□会(病院)に行って。」で決めました。伯母が聞いてくれた相手が良かったと本当に感謝しています。

後に知ったことですが、□□会は私の住んでいる辺りでは脳神経外科の評判が良く、担当してくれた先生も今では病院の院長にまでなっています。実績があるからこそ院長にまでなられたのだと私は思います。父がいい先生に巡り合えて本当に良かったと思っています。

【2】治療内容は「開頭動脈瘤クリッピング術

私は父が病院に運ばれて緊急手術を受けたことを母に内緒にされていました。家で留守番をしていた私は実際にどのような検査をして、どのような手術をしてということも全く知りませんでした。恐らく緊急手術ということですと、検査をいくつも時間をかけてはやらないと思うので血液検査・CT検査かMRIといったところだと思います。

手術についてはクモ膜下出血の代表的な治療法、「開頭動脈瘤クリッピング術」という手術をしてもらいました。再破裂のリスクが低いとされる手術だそうです。父は現在坊主にしているのですが、頭の右側に膨らみがあります。その膨らみが手術の名残、クリップが入っています。父はこの開頭動脈瘤クリッピング術によって一命を取り留めました。

MRI検査

【3】術後の過ごし方

私が父と対面したのは手術をしたその日は会えず、1日明けてその次の日に対面しました。その日は伯母が私を迎えに来て病院まで連れてきてくれました。病院までの道のりで伯母が「お父さん、検査して頭が包帯でぐるぐる巻きだけど、びっくりしてかんよ。」うん、わかった。と父が何もなかったことにほっと安心しました。

母と合流し、ICUで再会。父は坊主頭にされ、頭に包帯を巻いてヘラヘラ笑いながら私と母に「誰?」とおどけて聞いてきます。その日は会話を普通に交わし、面会時間5分か10分を守ってICUを出ます。

そこで衝撃的な事実が私に告げられました。「△△(私)もう、大きいからわかると思うけど、お父さん、クモ膜下出血だった・・・」え?あの『救急24時』みたいなやつでよく見かけるやつで、死んじゃうとかそういうやつ?など、その後は母を質問攻めにした覚えがあります。

次の日も父に会いにICUへ入りますが、昨日までの面影が全くなく、顔がパンパンに腫れています。パンパンに腫れた顔でうちわを持って弱々しく自分を扇いでいました。意識は朦朧とし、昨日まで普通の会話をしていたことが嘘のようでした。

手術の影響で顔に水がたまって、顔がパンパンになっているということと、術後は血圧を上げなければならないので暑く感じていると看護師から説明を受けますが、ただ目の前にいる父が命を落とすのではないかと不安で仕方なくなりました。

その日は執刀してくれた先生とは別の先生からこれからの父の治療の説明を聞きました。が、その先生。とても言葉が冷たく冷酷な人だなと思ってしまったので、治療の説明なんて全然耳に入ってきません。

ちなみに私がショックを受けた言葉は「この2週間がヤマなので、どうなるかはわかりません。」母は慌てて「子どもも聞いてるんですからそんな言い方しないでください!」それからICUを出ますが、帰りのバスを待っているときにどうしても我慢できなくなり私はシクシクと泣き出します。

「代わってあげたい・・」母も不安だったでしょうが、「大丈夫、お父さん絶対治るから。」と手を取ってくれるも、先がどうなるか全く見えず、不安でいっぱいでした。

次の日もICUで父と再会します。相変わらず顔はパンパンですが、昨日よりも話ができます。母は「お父さん、手見せて。・・・(手を見て)お父さんは生命線が長いから絶対治るね。」私を安心させたかったのでしょうね。

それでもICU生活が1週間も過ぎるとみるみる回復し、父もやりたい放題で自分につながっている管を抜いて機械をピーピーならして看護師を困らせたり、毎日看護師が聞いてくる「名前・住所・今日は何月何日?」などの質問が鬱陶しくて怒っていたり、「早くICUから出せ」だの文句が多く、周りの患者さんとは全く違って浮いていました。ということで、異例の早さではないでしょうか。2週間でICUから一般病棟へ移ります。

4)入院生活・リハビリ内容は?

【1】一般病棟へ移っての入院生活

ICUでは管に繋がれて身動きが取れず、煩わしかった父。一般病棟へ移ったことが嬉しくてニコニコが止まりません。一通り説明をされて看護師が部屋から出たら「じゃあ、散歩いこっか。」昨日までICUにいて、まだ導尿の管も入ってるし、1つ機械が付いてる人が散歩とかいいのかなぁ・・と看護師に確認したところ、快諾してくれました。

まだ、当然歩けないので車いすで外に出たり違う病棟へ行ってみたりしてとても嬉しそうな父。

売店の前を通ると、当時は病院の中にも喫煙室が設けられている時代でしたので、売店にもタバコが当然売っていました。そこで父「ちょっとタバコ買って。」ダメだと言っても「先生に内緒にしとけばいいから。」と頭の病気をしているのにどうしてそこまで考えられるのだろうと、とても自由な発言に母と笑いあいながら、父が生きている嬉しさをかみしめました。

父は歩けないだけで退院前と同じように何でもできると思っていたようで、一般病棟に移ったその日から「ごはんが食べたい」と言って食事を出してもらいました。食事を見た父はなぜ起きる反応なのかわかりませんが、オアズケを待っているような犬のようにヨダレが止まりません。更に、自分でできるつもりでやろうとしても利き手の右手が全く動きません。ショックを受けつつも左手で食べたり、母に助けてもらったり何とか食べ終わった時には笑顔で「残りは△△(私)にあげるで、食べやぁ。」

1つの回復がこんなにも嬉しいことなんだと私も笑顔で「ありがとね。」と味のない食事を平らげました。父が悩まされていたことと言えば、便秘です。薬の副作用なのか、体質が数日で変わってしまったのか、看護師に便秘の坐剤を入れてもらっても、時間を待たずにトイレに行きたがり、結局出ず、摘便の処置で出すということがしばらく続きました。

父は利き手が動かないと先にも述べましたが、右半身が動きませんでした。当然今までできていたことができなくなるということがショックだったようですが、他にも父はショックを隠せなかったことがあります。

『顔が変わった』・・・

何かをする時に自分の顔を鏡で見たらしいのですが、私も母もICUで見たパンパン顔の水も抜け、普通に戻っていたと思い込んでいました。ですが、本人には違う顔になってしまったという意識がとても大きかったようで、やりきれない顔をしていました。

それは今でも父が言っていますが、「あの時(手術時)先生がおでこの皮をきちんとひっぱりあげてくれなかったから変になってまった。」(それは思い込みだし、変になってないから大丈夫だよ。と、思い込んでいる人には何度言っても伝わりません。20年もくどくどと相変わらず言っています。)

入院生活は個室で母が簡易ベッドを病院から借りて泊まり込みで面倒を見ていました。個室でしたし、周りに気を遣うこともなくわがままを言いたい放題でしたが、先生や看護師たちの指導やお世話、母の懸命な看病、そして何より本人のやる気が父を大きく回復させてくれました。

医者と看護師

【2】脳の病気だからこその奇行

母は泊まり込みでずっと父と一緒にいたので、いろいろな奇行も目にしてきました。

(1)看護師が部屋に来た時に「ここの病院は昔から鬼太郎グッズがもらえるんやろ?」と聞いたそうです。冗談ではなく、真顔で聞いたそうです。看護師も母も思わず噴き出したと言っていました。

(2)夜中、母が簡易ベッドで寝ていると何やらゴソゴソ音がしたので父の方を見てみると、ICUにいたときに私と母が買いにいったお守りの紐を完全に開封していたそうです。

母「何しとるの?」

父「この中に豆が入っとるで、それを煎って食べならん」

母「食べんでもいいわ。」

自由のない看病で疲れているのに奇行には悩まされたそうです。でも、それも今の元気な父の姿があるからこそ言えることだと思います。ちなみにその奇行、父は全く覚えていないそうです。

【3】リハビリ内容

リハビリが始まる頃には私も春休みが終わり、学校が始まっていたのでリハビリの時間を終始見ていたわけではないのですが、毎日学校が終わり病院へ行くといつも母が「今リハビリ。」と教えてくれます。リハビリ室を除きにいくと、出入口近くのエアロバイクをいつもこいでいました。私を見つけニヤリと笑い、挨拶代わりに手を上げ、頑張る父。

病気のせいで怒りっぽくもなっていたこともあり、怒りながらリハビリに向かうこともしょっちゅうあったようですが、私が付くといつもニコニコ。やっぱり、家族が来ると嬉しいものなのですかね。私が毎日行っていたことも父の力になっていた?と考えてもいいでしょうか。

リハビリの内容はエアロバイクや歩行訓練、ハンドグリップやエキスパンダーみたいなものも使っていた記憶があります。

全てが父の体に合っていたのでしょうか。退院する頃にはバランスを崩すこともなく、普通に立ち、どちらかの足を引きずることもなく普通に歩けるように大きく回復し、右手に少し力が入らないものの、体には後遺症は残りませんでした。

ただ目立った後遺症がないだけで、言葉には聞き取りづらい部分がありました。この病気で脳梗塞ができたのですが、その部分が言葉を発することに関わる部分だったということです。

言語のリハビリは指導してくれる人とのやり取りを一度もみていないのでわからないのですが、病室にはいつも簡単な短い文がイラストと共に書かれているプリントが置いてあり、それを母と一緒に練習していました。例ですが「くろい ひとみの ふくろうが ぼろっほ ほっほと ないている」このようなリズムのいい簡単な文がいくつも書いてあったような気がします。

退院するときには『聞き取りづらい』から『少し聞き取りづらい』までに回復し、家でもプリントを何度も読んだり、幼児の絵本を読んだりして、頑張っていました。今では日常会話にはほぼ問題はありません。

5)家族・職場でのサポートは?

【1】私たち家族はどうサポートした?

先にも述べましたが、母は泊まり込みで父と一緒にいました。できなくなったことも多く、それを励まし、時には一緒に頑張ったこともあったと思います。ちなみにその入院に付き添っていた母は父が退院する頃にははいていたズボンのサイズが変わるほど痩せていたそうです。後日談で誰にも言ってなかったみたいですが、痩せるほどの懸命な母の看病に、私も頭が上がりません。

私はと言いますと、春休みは毎日お見舞いに行き、学校が始まっても毎日お見舞いに行くことを日課としていました。母みたいに何かしてあげることができないので、せめて顔だけは毎日見せようと思い通っていました。

ちなみに母が泊まり込みをしているとき、私は伯母(母の姉)の家で生活をし、そこから学校にも通っていました。学校も病院もそこからなら10分もかかりませんし、むしろ家より近いのでとてもラクさせてもらっていました。

当時飼っていた犬と誰もいない留守宅は伯父(父の兄)にお任せして泥棒対策などもとってもらっていました。

【2】職場の対応

父が倒れた当時、車で職場に通っていたので車を家まで持ってきてくれたり、しばらく母の足になってくれたり、いろいろな手続きのために家と職場を往復してくださった●●さん。この方には本当にお世話になりました。

他にも父の上司の■■さんには●●さんと一緒に動いてもらって、退院した後も交替勤務から日勤専属、部署も体に負担のかからないところへ異動、慣れるまでの勤務時間の変更、父の職場復帰のことを一番に考えてくださいました。

実は●●さん、先日20年ぶりに家にいらっしゃいました。冒頭、父のプロフィールでも書きましたが、平成30年に職場に復帰する予定で、父にその仕事のオファーを出しに来たみたいです。大病を患ったのに、まだ働けるというその父の体力・気力は一体どこから湧き上ってくるのでしょう。我が父ながら疑問に思います。と同時に誇りにも思います。

オフィスでの会議風景

【3】生活習慣で大切にするべきこと

(1)食生活

私は父の食事を当時は作っていなかったので全て母まかせでしたが、家の調味料が減塩の物に変わりました。マヨネーズもカロリーハーフのものを使うとか、小さなことから心がけて、血圧をあげないような食事を作ることを心がけていたようです。

今は私も結婚したのですが、一人っ子ということもあり、主人に家に入ってもらいました。食事も私が担当することとなったのですが、父と母の食べる薄い味付け、主人の食べるガッツリ料理、子どもの料理と作り分けています。

(2)入浴

これは冬になる頃にテレビでもよく見かけますが、ヒートショック対策を心がけるようになりました。

(3)運動

父がいつから続けているかわかりませんが、退院してきてから始めたことです。ウォーキングをするようになりました。血圧をできるだけおだやかにさせたいので寒い時期と暑い時期とではある気に行く時間帯を考えて体のために続けているようです。

(4)倒れる前の生活習慣は?

タバコはやめましたし、お酒も年に数回、家族パーティーなどで主人の晩酌に付き合う程度になりました。

【4】治療費

その頃はまだ親に面倒を見てもらっていたので難しい金額の話はよくわかりませんが、3月16日に倒れ、退院する5月4日までの3ヶ月弱の間に検査・手術をし、ICUから一般病棟の個室、2人部屋も使いましたが総額で70万円程だったようです。

そんな大金どこから出たの?と思わず母に聞いてしまいましたが、生命保険でおりたお金で全部払うことができたそうです。

6)父の闘病生活を見て感じていること

【1】発症してからの年数と現在の父

平成10年に発症し、現在が平成29年なので約20年経過しています。父は退院してから約3ヶ月後に職場に復帰してから、60歳の定年まで働き、更に嘱託社員として65歳の誕生日まで仕事を勤め上げました。現役を退いてから半年が過ぎます。「もう俺は中卒から50年も働いたで、休んでもいいやろ?」とか言って毎日をのんびり過ごしながら、同居の孫の面倒をよく見てくれてとても助かっています。

ですが、20年ぶりに家にきた父の元職場の●●さん。父ののんびりに仕事オファーの邪魔が入りました。また平成30年から働き始めるそうです。大病を患っていますし、年齢も年齢なので無理のないようにやってくれればと思っています。

【2】父の闘病生活を振り返って

倒れた連絡が入ってからICUでの術後1週間の入院の間はとにかく路頭に迷うというか、何をしていいのか、どうしたいのか、何も答えが出せずにいました。「父は生きて戻ってこれるのか」、「父の建てたばかりの家のローンは誰が払うのか」、「母は誰が養うのか」、「私は高校を辞めて働かなければならないのか」・・当時高校生の私には何の答えも出ませんでした。

母もどうしていいのかわからなかったはずです。でも私がいるのでつらいとか苦しいとかそのようなことを口にしたり、態度に出したりすることはせず、気丈にふるまってくれていました。私は父の入院で涙を何度か流しましたが、母は私の前では1度も泣きませんでした。いろいろと当時は考えることが多かった母と私ですが、拍子抜けしたのも事実です。

テレビでクモ膜下出血の患者さんは命を落とすことが多いと見たことがあります。ですが、父の回復の早さには母も私も完敗です。ICUで看護師にわがままを言って迷惑をかけていることから驚きが始まり、一般病棟に移ってからのリハビリに力を入れている姿、そして回復力。本当に驚きましたし、信じられませんでした。回復していく父を見ていて一番の感情は「嬉しい」でした。

運なのか、本人の頑張りなのか、周りのサポートなのか・・いまだに働ける状態まで戻ってこられたことが夢なのではないかと思うことがあります。父には言えてないですが、「生きて戻ってきてくれてありがとう。」と常に思っています。

【3】現在、くも膜下出血や後遺症と戦っている皆様やご家族様へ

私の父が助かったのはいろいろなことがうまく重なってのことだと思います。先生の治療やリハビリは日常的に病院側がしてくれていることですが、ご家族ができること、ご本人が頑張れることを考えたら何がありますか?小さなことでも何か病気に奇跡を起こしてくれるかもしれないと思うことがあれば、積極的にやってみてはいかがでしょう。後悔しないためにもまず行動することが大切だと思います。

私は当時高校生で父の状況に落ち込むばかりでしたが、「毎日、父に会う」そう決めて毎日病院に行っていました。実際にはわかりませんが、それがもしかしたら父のやる気につながってくれたかもしれません。母は母で何か心に決めていたことがあったかもしれません。些細なことで大丈夫です。何かご自身にできることを考えてみてください。

まとめ

【1】先生の治療を信じましょう

【2】できないことがあれば看護師や家族など、サポートしてくれる人を最大限に使いましょう

【3】自分ができることは何か考えてみましょう

【4】家族ができることに何があるか考えてみましょう

【5】ダメでもともとの精神で、何かに挑戦する気持ちを大切にしましょう

父が闘病してきたので現在闘病中の皆様が決して他人だと思えません。闘病中の皆様が回復なさるように心より願っております。

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